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<歴史>
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南北朝時代
1346年 〜 1370年(正平年間)
伯耆国名和(鳥取県西伯郡大山町名和)で海運業を営んでいた名和氏の一族、上神高直が
石山台(現、榊原病院一帯)に城を築く。(=石山城)
付近には摂関家領・鹿田荘の中心部ががあり、室町時代末期より航行していた高瀬舟が発
着する旭川(鹿田川)の港町としても栄えていた。
その後、約150年間の城主は不明。
戦国時代
1521年 〜 1528年(大永年間)
金光備前が石山を居城とし、金川城(建部町)城主の松田氏に仕えた。
金光備前の養子、金光 宗高(かなみつ むねたか、通称:与次郎)が家督・石山城を継ぎ、
金川城主の松田氏に仕えた。
この頃の石山城は、守りの堅い館程度のものであったと推定される。
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金光氏= |
備前国でかつての旭川河口に近い東岸の御野・上道付近を本拠地としたと
思われる土着の国人(諸国の開発に推進した武士層)領主 |
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1570年(石垣元亀元年)
宇喜多直家(備前守護代浦上氏の一族浦上宗景の被官)が金光宗高を没落させ、この地を
支配した。
自らの居城とすべく、城の大改修に着手。
当時石山にあった岡山神社・今村宮・岡山寺・蓮昌寺などの社寺を城外に移転し、城を大幅に
拡張した。
1573年(天正元年)
宇喜多直家、それまでの居城であった亀山城(沼城)から石山城に入城し、城の改築と城下町の
形成を行う。
北方の山裾にあった西国街道(山陽道:京都〜下関)を城の南に沿うように付け替え、城下に導く。
備前福岡、西大寺などから商人を呼び寄せ、城下町の整備を行う。
(流通主導による経済振興政策)
その後、直家は備前中原への進出など、備前西部を中心に勢力を急速に伸張していく。
1575年(天正3年)
宇喜多直家、浦上宗景の兄・政宗の孫を推し立て宗景を播磨へ放逐し、下克上を行い、やがて
備前、美作、播磨、備中の一部を支配下に置く。
1581年(天正9年)
宇喜多直家、領国平定のための合戦に明け暮れていた為、本格的な近世城郭の建設に着手
できないまま、石山城で死去。
羽柴(のち豊臣)秀吉の天下統一の合戦に従軍した直家の子、宇喜多秀家(秀吉の養子)が
直家の遺領を継ぎ、57万4千石の大大名となる。
1590年 〜1597年(天正18年 〜 慶長2年)
宇喜多秀家、秀吉の天下統一が一段落した1590年(天正18年)
57万4千石にふさわしい新規築城と城下町の整備に着手する。
秀吉の指導のもとに築城計画、8年間にわたる大改修が行われ、近世城郭としての体裁を整える。
「岡山」に本丸を構え、石山城の本丸を二之丸内郭に、二之丸を西之丸とし、内堀を挟んで二之丸、
その西に三之丸の郭を整備する。
1594年
宇喜多秀家、書状へ城下町を「岡山」と記す。
以後、城は「岡山城」、城下町は「岡山」と称されるようになった。
本丸の東側の守りが極めて薄い構造になったため、約2km北を蛇行していた旭川本流を城郭の
北から 東側に沿うように極端に寄り添わせ、天然の堀として防御力を強化した。
この付け替えによる明らかに不自然な形の流路は、城下に洪水を多発させる 原因となり、やがて
放水路としての百間川の整備へとつながる。
1597年(慶長2年)
本丸(本段、中の段、下の段)の本段の北寄りに金箔瓦を使用した壮麗な4重6階の望楼型天守を
建てる。この天守の竣工をもって一応の完成をみる。
石山城の南に沿って通していた西国往来(山陽道)の道筋を、岡山城を南から取り巻くように変え、
直家時代の城下町を拡大整備し、更に国内の有力商人を 誘致して領内経済活動の中心とした。
(表町商店街の始まり)
1600年(慶長5年)
関ヶ原の戦いで破れた秀家(西軍主力)は八丈島に流刑となり、宇喜多家は領地・家禄・屋敷を
没収された。
代わって小早川秀秋が備前・美作52万石の領主として入城する。
小早川秀秋、本丸中の段を拡幅し、二之丸への石山門の増設を行う。
三之丸の外側に15町余の外堀を掘り、三之外曲輪(町屋)を拡大し、城下町の整備を行う。
領民に加え家臣までも動員した突貫工事で築かれ、わずか20日で完成したため、「廿日堀、
二十日堀(はつかぼり)」と呼ばれる。(現、柳川筋)
1601年(慶長6年)
小早川秀秋、中の段南隅に沼城天守を移築。
(大納戸櫓と呼ばれ、岡山城最大の櫓で二層の大入母屋造りの上に望楼を乗せた形式の
三層四階の櫓)
1602年(慶長7年)10月
小早川秀秋、岡山で急死。嗣子がなく小早川家は断絶。
江戸時代
1603年(慶長8年)
姫路城主池田輝政の次男忠継(5歳)に備前28万石が与えられる。
兄の利隆が「備前監国」として代わって国政を執る。
池田利隆、「石山」西端の西之丸を整備。西之丸西手櫓を築く。
1613年(慶長18年) 池田忠継、岡山城に入城。
1615年(慶長20年) 池田忠継、死去。
1615年(元和元年)
池田忠継の弟、忠雄が淡路島より31万5千石で入城。忠継の遺領を継ぐ。
池田忠雄、岡山城整備の総仕上げを実施する。
幕府の格式に見合った城とする為、本丸中の段を大幅に北側に拡張して廊下門や月見櫓などを
建築、本段の御殿に加え、新たに表書院も設ける。
大手の南門を造り替え、城下の西端を限る用水路「西川」を整備するなど、城郭が完成する。
その後岡山城は大規模な増改築は行われることはなく、忠雄時代の城郭が明治まで維持される。
1632年(寛永9年)
鳥取へ転封した池田忠雄の子、光仲に代わって鳥取から池田光政が31万5千石で入城する。
以後、幕末まで光政系池田氏の居城となる。
(池田光政=利隆の子、姫路城で生まれる、土木事業に積極的)
1669年 〜 1686年(寛文6年 〜 貞享3年)百間川の整備が行われる。
1687年(貞享4年)
光政の子、池田綱政、御後園(後楽園)の築庭に着手。14年の歳月をかけて造営する。
周囲を土塁と竹垣で囲み、庭園の形をとるものの、旭川を隔てて本丸の対岸を取り巻くように
築かれている為、本丸の防備を強化する郭の役割を果たしていたという説もある。
百間川、御後園(後楽園)ともに岡山郡代官、津田永忠によるものであり、永忠は閑谷学校、
藩の新田開発などにも手腕を発揮した。
明治時代
1869年(明治2年)
版籍奉還により藩主、池田章政は岡山藩知事に任ぜられる。
岡山城は藩の府城たる役割を終え、一時的に明治新政府の兵部省所管(存城)になる。
1873年 〜 1882年(明治6年 〜 明治15年)
廃城令(1873年)により、順次建物が取り壊され、堀が埋め立てられていき、天守・月見櫓・
西之丸西手櫓・石山門を残すのみとなる。
1890年(明治23年)
一時的に陸軍省の所管になった後、岡山藩知事(旧藩主)池田章政に払い下げられた。
その後、池田家は岡山県に提供する。
1896年(明治29年)
本丸趾に県立岡山中学校が建設される。
昭和初期頃までに、城跡と見受けられるのは本丸を残すのみとなり、本丸を除く
城郭は市街地へと変貌し、五重の濠に囲まれた巨大な城郭は、その威容を失った。
昭和時代
1931年(昭和6年)
天守閣が国宝保存法に基づき、天守閣が当時の国宝(現行法の「重要文化財」相当)に
指定される。
1933年(昭和8年)
月見櫓、西之丸西手櫓、石山門が国宝保存法に基づき国宝に指定される。
1945年(昭和20年)
6月29日、岡山空襲により、天守閣・石山門を焼失する。
1950年(昭和25年)
文化財保護法の施行により、焼け残った月見櫓・西之丸西手櫓が重要文化財となる。
1960年 (昭和35年)
旧藩士を中心に岡山城再建期成同盟会が結成され、天守閣再建の動きが本格化する。
その後、岡山市がこの事業を引き継ぐ。
1964年 〜 1966年(昭和39年 〜 昭和41年)
1964年(昭和39年)天守閣再建に着工。1966年(昭和41年)11月に竣工。
天守閣は鉄筋コンクリートにて再建され、外観は、ほぼ旧状どおりに復元される。
不明門・廊下門・六十一雁木上門・塀の一部も再建され、岡山城は昔日の威容を取り戻した。
1987年(昭和62年)
「岡山城跡」として史跡に指定される。
平成時代
1996年(平成8年)
築城400年記念事業により、鯱に金箔を施す。
(創建当時の天守には金の鯱が載り、金烏城と呼ばれていた伝承より)
2006年(平成18年)
日本100名城(70番)に選定される。
城跡は烏城公園として整備されており、復元天守の内部は博物館となっている。
月見櫓は烏城公園内にあるが、西之丸西手櫓は、400mほど西の小学校跡地
(北区丸の内1−2)にある。
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