岡山城は、標高が十数メートルの丘「岡山」「石山」「天神山」が連なる丘陵に築城
されました。
その丘のうちの「岡山」に本丸が設けられたことが、城名、城下町の名の由来になり
ました。
戦国時代、備前西部から美作、備中に勢力を伸ばした宇喜多氏が本拠としたことで
近世城郭の基礎が生まれ、その後小早川氏、池田氏により整備、拡張が行われました。
城郭は基本的に、城の中心である本丸の西側の一方だけに二の丸や西の丸などの
郭(くるわ)が配置された梯郭式(ていかくしき)となっていて、また、平野の中の丘陵に
城郭の主要部を置いた平山城という形式ですが、姫路城や松山城、高知城などの他の
平山城に比べても標高が極めて低い平山城となっています。
本丸の北から東には本丸を守るべき他の郭が全く存在しない、非常に防備が薄い構造
であった為、旭川の流路を変更し、天然の堀として東側の防備に利用したとされます。
しかし、その不自然な形の流路は、城下に洪水を多発させる原因となり、やがて放水路
としての百間川の整備へとつながります。
天守は4重6階の複合式望楼型。
外観は黒漆塗の下見板が特徴的で、この印象から「烏城(うじょう)」とも呼ばれ、
隣県の姫路城(別名「白鷺城(しらさぎじょう)」)と対比されることもあります。
元禄時代(1688〜1707)の古地図からは、五重の濠に囲まれた城郭と、南北3.5km、
東西1.3kmに及ぶ城下町の姿が伺えます。
明治時代、廃城令(1873年)により御殿・櫓・門の大半が取り壊されました。堀は内堀の
一部を除いてほとんど埋められましたが、現在の街路は江戸時代の位置をほぼ踏襲して
いる個所が多くみられます。
更に第2次大戦中、岡山空襲(1945年6月29日)のため天守・石山門を焼失しました。
現在までに2つの櫓、本丸付近の石垣、内堀が残り、戦後に天守・不明門・廊下門・
六十一雁木上門・塀の一部が再建されました。
現存する月見櫓・西之丸西手櫓は国の重要文化財に指定され、「岡山城跡」として史跡
にも指定されています。その他、京橋御門は岡山市南区小串に移築され現存しています。
城跡は「烏城公園」として整備される一方、二之丸跡に山陽放送、林原美術館、岡山市
民会館、三之丸跡に岡山県庁、岡山県立図書館などの公共機関があります。
また隣接する大名庭園「後楽園」は、偕楽園(水戸)・兼六園(金沢)とともに、日本三名園
として並び称されています。 |