原始の頃、現在の瀬戸内海は台地・草原が広がり、川が流れ、湖沼が点在し、ナウマン象をはじめと
する大型の獣、シカや野牛などの動物が群を成した平原でした。
北部では、大山の活発な火山活動による生態系の破壊や気象の著しい変動が進み、蒜山を中心に
狩猟・採集生活していた人々は激減する動物・植物、住居を求めて移動しました。
南部は、内海の形成(海水流入)、陸地化を繰り返した後、約7000年前(縄文時代)に現在の瀬戸内海
が形成され、後に「吉備の穴海」と称される現在の半島以北の浅海に児島と20余りの島々が浮かびま
した。
児島の丘陵上・島々・高原・台地縁辺を生活の拠点にしていた人々は内陸・山間部へ移動、その後の
気候・環境変化により居住を平地へ移動しました。
平地では縄文時代晩期に稲の栽培を始め、弥生時代に集団・共同作業による農耕を広めました。
農耕とともに、弥生時代後期に広まった製塩、古墳時代に広まった製鉄の優れた技術で吉備国(黍の
国)を繁栄させ、畿内・出雲に並ぶ古代有数の地方国家を作りました。
瀬戸内海のほぼ中央に位置した港を持ち、南北に主要な航路を有した児島は吉備国の要所になりま
した。
一方、本州側では、吉井川、旭川、高梁川の三大河川から流出した土砂の沖積作用で、潮流が緩やか
な島々の間に干潟が発達しました。
奈良時代(8世紀頃)から河口の干潟、低湿地地帯を排水改良した小規模な農地開拓が行われました
が、児島はまだ瀬戸内海に浮かぶ島でした。
室町時代から江戸前期にかけ、国力増強の為に組織的、計画的に新田開発が行われるようになり、
岡山では岡山城下町建設後の1583年、宇喜多秀家による干拓が始まりました。(倉敷市中庄辺り)
1618年、現在の倉敷市西阿知から粒浦辺りの干拓により児島は陸続き(児島半島)となり、西側が
阿知潟(あちがた)、東側が静かな入海「児島湾」になりました。
1692年―1824年、池田光政、池田藩政時代、岡山市沖新田・興除新田の干拓が盛んに行われ、江戸
時代の寛永から慶応までの約240年間に約6,800haの土地が造成されました。
明治時代に入り、廃藩置県に伴い家禄を奉還した旧藩士たちによる干拓事業の試みが契機となり、
1899年(明治32年)から藤田組(大阪の豪商、藤田伝三郎が大阪に創設。現、同和鉱業株式会社)が、
児島湾内の大規模な干拓(藤田開墾)を行い、約5,500haが順次着工されました。
1946(昭和21)年から国営事業(食糧増産対策)として農林省(現:農林水産省)に引き継がれ、1963
(昭和38)年に完成しました。
新田は干拓地の呼称、島、崎、浜などがつく地名は往時の海辺の名残です。
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