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源流・上流部の歴史 |
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旧石器時代 前期(猿人・原人) |
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源流付近の蒜山盆地(東西20km、南北10km)は南側の中国山脈から日本海へ傾き、
朝鍋鷲山に源を発する現在の旭川は中国山地から北部へ流れていました。 |
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約100万年前、火山活動により誕生した蒜山三座(蒜山山群)が蒜山盆地の北部を遮り、
流れは西に方向を変え、上蒜山の西側より日本海側へ流れ込むようになりました。 |
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約35万年前、大山の噴火によって蒜山盆地の西側が堰き止められ、南側を中国山地、
北側を蒜山三座に囲まれた200km平方の蒜山原湖が誕生しました。(真庭市蒜山地区、
蒜山高原の南側)その後も大山の噴火活動は続き、蒜山原湖の西部は噴出物で埋ま
っていきました。 |
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旧石器時代 中期(旧人) |
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約15万年前以来、蒜山原湖の東部は南からの谷頭侵食(谷の最上流部で行われる侵食
作用)で現在の蒜山盆地の地形になり、蒜山原湖の湖水は旭川の源流となって南部へ
流出し始めました。 |
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やがて蒜山原湖は干上がって消滅し、湖であった頃のプランクトンの屍骸である珪藻が
化石(珪藻土)となって残り、蒜山高原が誕生しました。 |
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旧石器時代 後期(新人) |
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約30000年前 |
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旭川の源、蒜山地方(岡山県真庭市蒜山)の旧石器人たちは、川の近い場所を移動し
ながら、水を飲みに来たシカや野牛などの動物を狩猟して生活していました。 |
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中山西遺跡(蒜山高原)、野原遺跡(神郷町)下郷原田代(しもごうはらたしろ)遺跡、
城山(しろやま)東遺跡、戸谷(とだに)遺跡群など。 |
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=色々な石材を用いて巧みに石の道具を製作したナイフ形石器、削器(さっき)、
掻器(そうき)、彫器(ちょうき)、石斧などが出土。 |
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約21000年前 氷河期 |
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大山の活発な火山活動、降水などによる火山灰の流出、河川を通じての大量の灰の
流下、狩猟・採集対象の動物・植物の激減。火山灰による気温低下など、生態系の
破壊や気象の著しい変動が進み、蒜山地方の旧石器人たちは内陸部へ移動しました。 |
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◆ |
約12000年前 |
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地球規模での温暖化による環境変化(氷河期の終焉)で、落葉広葉樹がその範囲を
拡大し、枝に実らせた果実や木の実が人間・動物たちの安定した食料源になり、川沿い
に集落を設けました。 |
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恩原遺跡群(上斎原村)、戸谷遺跡(八束村)=調理(炉)跡が出土。 |
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縄文時代 |
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約10000年前 |
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縄文土器(煮炊き用の鍋)が作られ始めました。 |
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煮炊きの新たな調理法は消化を助長させ、人類の延命に貢献しました。 |
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約 8400年前 |
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豊富に存在する山の幸と河川の資源を活用した定住生活を営んでいました。 |
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中山西遺跡・城山東遺跡(蒜山高原)など。 |
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=竪穴住居、丘陵の縁辺部に百基近い落とし穴 |
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ここで暮らしていた縄文人たちは一人で動物を追いかけて狩りをするだけでなく、
動物を集団で落とし穴に追い込んだりしていたようです。 |
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◆ |
約 6000年前 |
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気候の変化や動物の獲り過ぎなどで居住地を山間部から移動し、次第に平地へ住居を
構えました。 |
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下流部の歴史 |
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古代から中世 |
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旧石器時代中期 (蒜山原湖の湖水が旭川の源流となって南部へ流出し始めた頃)、
下流の岡山平野で旭川は、龍ノ口山(岡山市中区)の西麓から複数に枝分かれし、
操山(岡山市中区)や矢坂山(岡山市北区)の南麓が海岸線になっていた「吉備の穴海」
(現在の児島湾)に注いでいました。 |
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参照 : 児島半島の誕生、歴史 |
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龍ノ口山西麓の分岐点から南に分流した流路は、さらに東西に分かれ、一方は現在の
八幡・原尾島・門田屋敷各地区あたりを南西方向へ流れ、後楽園東部を現在の流路より
少し東を蛇行しながら南流し、青江地区辺りの河口で海へ注いでいました。(本流)
もう一方の南流は現在の西川や市役所筋あたりを蛇行しながら南流し、大供辺りの河口
で海へ注いでいました。
二つの分流に挟まれた三角州(デルタ地帯)は大島原・大洲原と呼ばれました。
龍ノ口山西麓の分岐点から東に分流した流路は、現在の高島地区を南東方向へ流れ、
操山東部の河口で海へ注いでいました。 |
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龍ノ口山西麓の分岐点から西に分流した流路は、さらに南北へ分岐し、北流は現在の
津島を西流し、笹ヶ瀬川と合流、吉備の中山東南部の河口で海へ注いでいました。
一方、南流は現在の岡山駅北側の一帯を南西へ流れ、野田辺りの河口で海へ注いで
いました。
現在の西川や座主川、観音寺用水などは、旧河道を利用して作られています。 |
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縄文時代晩期、内陸の平地部では稲の栽培を始め、弥生時代に集団・共同作業による
農耕を広めました。
農耕とともに、弥生時代後期に広まった製塩、古墳時代に広まった製鉄の優れた技術で
吉備国(黍の国)を繁栄させ、畿内・出雲に並ぶ古代有数の地方国家を作りました。
河口部では潮流が緩やかな「吉備の穴海」の島々の間に、旭川から流出した土砂の沖積
作用で干潟が発達しました。
奈良時代(8世紀頃)から河口の干潟、低湿地地帯を排水改良した小規模な農地開拓が
行われました。 |
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近世 |
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室町時代から江戸前期にかけ、国力増強の為に組織的、計画的に新田開発が行われる
ようになりました。
戦国時代、岡山平野の土地の広さと陸運・水運の利便性に目を付けた宇喜多直家が、
旭川下流の三角州である大洲原にあった小高い丘の岡山・石山・天神山の中の「石山」
に本拠地を移し、石山城を築城。
直家の子、秀家が「岡山」へ天守閣を移し、石山城を取り込む形で岡山城を築城しました。 |
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参照 : 岡山城・岡山城下の歴史 |
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岡山城を築城の際、城の防御のため、現在の八幡・原尾島・門田屋敷各地区へと南西に
流れていた旭川の流路を、岡山城の北面から東面に添わせるように流路を蛇行させ、
それまでの流路よりも西に付け替えました。 |
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その大きく蛇行させた流路と、上流域で盛んであったタタラ製鉄のための樹木の伐採に
よる山の荒廃、製鉄の工程である「かんな流し」による土砂の堆積により河床が上昇した
ことなどの要因によって、岡山城下では洪水に度々見舞われました。 |
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江戸時代、岡山藩藩主の池田光政のもとに仕えていた陽明学者の熊沢蕃山が洪水対策
として「荒手」と呼ぶ越流堤と放水路を組み合わせた「川除け(かわよけ)の法」を考案し、
岡山藩郡代の津田永忠はこの構想を基に、3段の荒手(越流堤)により水勢を弱めながら
旭川の氾濫を越流・放水させる百間川を設計、開削しました。 |
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百間川は操山の北麓に添うように流れ、東岡山地区から南流して児島湾に注ぐ、全長
12.9kmの放水路でです。
「二の荒手」(中島竹田橋直下流)の幅が堤防を含め百間(約180m)あったことから
「百間川」と称されました。
1669年(寛文9年)に永忠の指揮で着工、1686年(貞享3年)に完成し、江戸期を通じて
完成当初の姿で洪水から岡山城下を守りました。 |
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旭川の流路は、御野郡と上道郡の郡境であった為、現在の西河原・東川原・竹田地区
などは西側の御野郡に属していました。
流路の変更で東側になりましたが、郡域変更はされず御野郡のままでした。
明治期における宇治村との合併により上道郡宇野村になりました。 |
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津田永忠はこの後、旭川と百間川を結ぶ運河の役割をもたせた倉安川の開削や旭川
流域の新田開発に着手し、沖新田などの大規模な干拓事業を指揮しました。 |
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また、室町時代末期頃に吉井川、旭川、高梁川で使用され始めた高瀬舟で木材や大豆、
鉄など運搬されました。
高瀬舟は初期の頃、落合(真庭市落合町)から、その後、美作高田(真庭市勝山地区)
から岡山城下まで航行し、岡山城下の京橋付近をはじめ、久世、福渡、金川などに船着
き場が設けられ、川湊として賑わいを見せました。
干拓は藤田伝三郎らによって明治から昭和30年代まで継続され、旭川の流路は大きく
南に延長されました。 |
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参照 : 児島半島の誕生、歴史 (年表) |
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明治から現在 |
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明治時代以後も製鉄による「かんな流し」が行われ、土砂堆積による河床の上昇がみら
れていた為、幾度となく航路維持の為の浚渫工事が行われていました。 |
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利水面では、1905年7月に全国8番目となる水道事業が岡山市で開始され、治水面では
内務省御雇い(=明治初期、西洋の技術・学芸を摂取する為、官公庁・学校などで雇った
外国人)のオランダ人技師の指導により、昭和初期に桜橋(岡山市中区)以南にケレップ
水制が建設されました。
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しかし、依然として岡山市の中心部は度々洪水に見舞われました。
1934年(昭和9年)9月、室戸台風による大雨によって旭川・百間川の堤防が決壊し、
死者60人を数えるなど大きな被害を受けました。
これを受けて百間川の増強計画、発電用としての湯原ダム・旭川ダムの建設計画が
進められましたが、第二次世界大戦に突入し、戦局の悪化とともにこれらの計画は
中断しました。戦後、中断していたダムの建設に着手し、1954年(昭和29年)に旭川
ダムが、翌1955年(昭和30年)に湯原ダムが完成しました。 |
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1972年(昭和47年)7月、旭川は再び洪水に見舞われ、旭川ダムの再開発と湯原ダム
の洪水調節機能の整備による多目的ダム化が実施されました。
現在は1992年(平成4年)4月に改訂された工事実施基本計画を基に改修が進められ
ています。 |
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